3500-13-12-2-1

ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

捕鯨問題と歴史認識

クジラクリッピング経由で
http://kkneko.sblo.jp/article/32472886.html

「環境経済・政策学会2009年大会」 企画:捕鯨論争の「解剖学」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/seeps/meeting/2009/abst/prog0908_2009.html#43

「文化」は創り出される クジラとのかかわりの歴史から捕鯨論争を再考する 渡邉洋之

など参考にしつつ。

過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる ?ヴァイツゼッカー


 日本の捕鯨史は縄文時代にまでさかのぼれるのは事実としても、日本に住んでいた人間がことごとく鯨肉を常食としていたかのように宣伝するのは、新興宗教の国家神道にも似ている。天皇家が古い家系であるというのは事実でも、それが日本人全員にとって神聖不可侵な存在と教育されるようになったのは近代の話であり、昔の日本人の中には天皇という存在すらしらない人間だっていただろう。「もののけ姫」で製鉄所の女たちがジコ坊の持ってきた手紙を見せられてぽかーんとしているシーンが忘れられん。捕鯨にしろ天皇制にしろ、全くの作り話とともに、「事実の間違いではなく、事実の捉え方の間違い」も多くある。

ヤスクニやテンノーってのは、むしろ国家権力による共同性の簒奪だと考えますにゃ。
実際に、明治政府は村落共同体の神社や鎮守の森を破壊しつつ、国家神道をでっちあげていったわけだにゃ。つまりは村落共同体の破壊と国家共同体のでっちあげというペテンだよにゃ。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915


 近代化以前の日本の捕鯨がどうだったのかは実はよく分かっていない様だ。星川氏の本でも、ローテクが常に環境に優しいわけではなく乱獲で自滅したようだとは書かれているが、はっきりとした証拠はないみたい。ただ仮に持続的捕鯨を行っていたとしても、近代化、帝国主義化の過程でそういった「伝統的捕鯨共同体」は解体され、近代捕鯨産業に取って代わられたと考えるのが普通だろう(社会のあり方は常に変遷するという大まかな歴史の流れに即して)。以前にも述べた通り、鯨油は当時の帝国主義諸国にとって重要な工業製品であり、だからこそ各国はクジラが姿を消すまで乱獲し、増産を追求したのだ。その帝国主義列強の一角に食い込んだ大日本帝国がクジラを乱獲していないというなら、それを可能にした特別な理由(代替物の存在とか、根本的に異なるテクノロジーとか)が存在しばければならないが、御用学者は当然無視している。「日本はクジラを乱獲していない」というのは「環境大国スイスにはガソリンで走る自動車はない」と言うのと同じレベルの話である。捕鯨サークルを揶揄して「大本営発表」などと言ってきたが、現代日本で信じられている捕鯨神話は大日本帝国の背骨である天皇制とよく似ている。批判がタブーである、というあたりとか。果敢にして斬新な皇室批判はあるけど。

商業捕鯨モラトリアム実施以後の、わが国の捕鯨をめぐる言説は、かなり不自由なものに変質したといえる。
捕鯨の近代 塩崎俊彦 神戸山手大学紀要 7: 13-21 (2005)


 冒頭のヴァイツゼッカーの言葉はずっと陳腐な表現と思っていたが、ありもしない過去の栄光(日本=捕鯨エリート)をでっち上げ、具体的プランもないまま捕鯨再開を獅子吼し自滅の道をひた走る捕鯨推進派を見るにつけ、その指し示す意味を噛み締めている。
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テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済

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