3500-13-12-2-1

ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

物語についての追記

 前に思いつきで物語の構造についてちょっと書いたのですが、こちらなど読んで。

『山口母子殺害事件』の物語変換プロジェクト
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-795.html

「一つの物語」を国家が押し付けることを極力止めることにしたのが欧米近代なのです。個人の「権利」とか「自由」とか「法」(の下の平等)というのは残し、それぞれの個人が「自分の物語」を持つ自由を許したのが近代ではないかと私は思っています。しかし日本の状況はそうはなっていません。公共圏も「公」「官」が独占してしまっているのです。


 この事件については、巡回先のブログ(例えばこちらなど)で話題になっていたのは覚えていますが、よく知りません。「お上が用意した筋書き」に従わないものは確たる証拠であれ関わる人間であれ排除される、ということでしょうか。そういえば退職を機に意見を変えた人捕鯨サークルの中にもいましたね。三崎さんの「転向」についてはkknekoさんがさらに詳しい解説をしてくれています。

商業捕鯨モラトリアム以後における日本の捕鯨外交を新しい視点で読み解く
石井、大久保 (要約 星川)
にはこのように書かれています。

米本昌平の「構造化されたパターナリズム」モデルによれば、官と民、財務省と他省庁、行政府と立法府のあいだで後者から前者への父権主義的権限付託が行われ(ex. 行政無謬論)、そのプロセスも不透明かつ非民主的である。ここでも行政に庇護された記者クラブの果たす役割が大きく、マスコミと官僚との互恵的な共生関係が、双方の属するシステムを維持している。


 「構造化されたパターナリズム」や「ウォルフレンの日本システム」は私の守備範囲からかなり外れるので立ち入れませんが、ひょっとしたら関係するかもしれない記述がありました。

捕鯨の近代 塩崎俊彦 神戸山手大学紀要 7: 13-21 (2005)

では、徳見光三著「長州捕鯨考」(1957刊、1971再刊)という本が挙げられています。

 世界の捕鯨業の発達はその鯨油を採取するということを先ず第一の目標として来たもので、わが国の捕鯨事業もこのことのみが重要目標で、その肉の食用化ということが一般に普及し始めたのは余程後年のことで、「江戸みやげ」という本に記された鯨肉食用の記事は遠く慶長にさかのぼるものといわれているが、実際に一般の食用に供されるようになったのはそれから更にずっと後世になってからであり、その赤肉がいまのように市中で販売され、一般の嗜好にも投じるようになった歴史は非常に浅いものである。(中略)
(略)
 従って、それが関西方面で早くも重要食品として取り上げられていたのに反して、関東方面ではこれが食用とされていたのはまことに微々たるものであり、殊に、鯨赤肉の生食などは全く関西方面においてさえ捕鯨浦付近を除いては自らその範囲も限られていた。これがいまのように大量に、広い範囲に利用消費され重要食品と見られるようになったのはここ四、五十年から前のことで、そのもっとも進出したのは終戦以後の食料不足に際してであるとさえいわれている。


 「長州捕鯨考」より上記を引用した上で、塩崎論文では「捕鯨産業を称揚すべき書物の中でこのような見解を述べることが可能であった事実のほうが重要であろう。同書が刊行された時期の捕鯨をめぐる言説を支える構造が、こんにちのそれとは大きく異なることにこそ注目しなければならない。商業捕鯨モラトリアム実施以後の、わが国の捕鯨をめぐる言説は、かなり不自由なものに変質したといえる。」と述べられています。

『なぜ調査捕鯨論争は繰り返されるのか』

 つまり、当初から調査捕鯨の立案に水産庁が政治的介入を行い、その結果、JARPAでは18年という長い研究期間が設定された。現在、漁業資源管理を専門とする学者の間では調査捕鯨に疑義を表明することはタブーであると聞く。IWCの科学委員会に出席している日本の科学者も日本政府に反する立場をとったことがほとんどないことを考えても、現在も捕鯨問題に関わる科学者の独立性は確保されていないと見るべきであろう。(中略)

 ある活動が科学とみなせるかどうかの判断基準の一つとして、政党や行政、企業の営利活動からの独立性が挙げられるが、これを満たしていないのが日本の調査捕鯨なのである。


(上記引用中の強調は私によるもの)
 何らかの政治的圧力を想定しない限り、日本の科学面のあのトンチキさは説明不能です。捕鯨問題がこじれた原因は一部水産官僚の官僚的本能行動(つまり自分の組織の予算と権益の維持・拡大を目的として活動すること)と広告屋の宣伝が「迫害される日本文化」という人口に膾炙する構図を演出できたことにあると私は解釈しています。「捕鯨問題は鯨だけにとどまらない」とか「クジラから世界が見える」とか、無内容な俗論は多くありますが、捕鯨問題に日本の縮図を見いだせてしまう点、言葉だけは正しいのかもしれません。下の言葉が(全く別の意味で)正しいのと同様に。

科学的な素養があまりにもないままだと、
第2の捕鯨や第3の捕鯨は、
いくらでもでてくるように思うんです。
それは、危険だなぁと感じています。


http://www.1101.com/2003_NEWYEAR/030102_science/ethics.html
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テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済

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