http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/class.html
そして、もっともっと大切なこととして、何が「よいことば」で何が「悪いことば」なのかを、水に判断してもらおうという考えは、まったくまちがっていると思います。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html
良し悪しの判断を結晶形に委ねてしまうことは、思考停止ではないでしょうか。良し悪しは自分の頭で考える(考えさせる)べきものだと思います。極端な話、好きなときに結晶が作れるようになれば、人間は善悪の判断を一切自分でしなくてもよくなってしまいそうです。それはまずいでしょう。
***(略)***
「ありがとう」はよくて、「ばかやろう」は悪いという安直な二分法でよいのでしょうか。誠意のこもらない「ありがとう」よりも愛情をこめた「ばかやろう」のほうがいい場合もあるはず。言葉はそれだけで切り出すべきではなく、「場面」と合わせて初めて意味を持つはずです。
「水伝」の信者をネットで観察したことがありますが「よいことば」を意識的に多用しようとしており、かえって言葉の持つ意味や美しさが損なわれていると感じました。最近見たものの中に「水伝」の変種のようなものを感じるところがありました。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080609/307049/
捕鯨に限らず大切なことは「獲物に感謝」することであろう。
と言っていますが、このコラムの筆者には基本的な知識が絶望的に不足しています。他にもyoutubeなどで捕鯨問題に絡めて「いただきます」と日本人が犠牲となったものへ感謝していることを強調する論調も見受けられますが、いくら感謝しているつもりでも、無知の免罪符にはならないのではないかと思います。「水伝」で「ありがとう」という言葉の価値が下落したのと同様に。
これについては既にkknekoさんが突っ込み済みですが、ここでも検証します。
激増しているミンククジラの腹の中は,サンマ,スケソウダラ,スルメイカ,カタクチイワシで満杯だったという。なにしろ日本鯨類研究所の試算ではクジラが1年間に食べるエサの量は3億?5億t。世界の年間漁獲量でさえ1億tなのである。
毎度のことでウンザリしますが、漁獲量とクジラの摂餌量を比較したところで競合関係がわかるわけではないんですよ。仮にも博士号つきの身なら専門家による文献(Kaschner et al., 2001; Kaschner, 2004; Kaschner et al., 2006; Myers & Worm, 2003; Worm et al., 2006; Yodzis, 2001)を参照するべきでしょう。そもそもクジラと人間の競合を否定する文献しか見当たらないのですが。
必然的に激減したシロナガスクジラの保護のためにミンククジラの捕獲を認めるといった考えも出てくるかもしれない。
これまたウンザリする俗論。これを根拠薄弱と批判する文献(Clapham et al., 1999; Holt, 2007)はあっても、この説を証明する文献は存在しません。米国海洋大気圏局によるシロナガスクジラ回復プラン(Reeves et al., 1998)や加藤秀弘先生の話も参照するべきです。そもそも我々はシロナガスクジラについて「最大の食べられる動物」という以外に何を知っているのか?何頭のミンククジラを間引けばシロナガスクジラがどのくらい回復するのか?という疑問も持つべきでしょう。
過去,生存の目的以上にクジラを殺すことはなく,殺されたクジラに礼が尽くされていた。こうして人間とクジラの間にはつながりが存在することとなり,種が保存されていた。
伝統的に鯨体は捨てるところなく利用されたと言われていますが、例えば、江戸時代はリサイクル体制が整っておりほとんどゴミが出なかったそうです。すなわち、クジラだけが余すところなく利用できる特別な存在なのではなく、当時の産業構造上(整備されたリサイクル体制と鯨体を陸に引き上げるという捕鯨法のため)、クジラも捨てるところがなかったのでしょう。20世紀以降の日本の近代捕鯨は当初、欧米と同じく鯨油を目的としていたと言われています。例えば1930年代末期の捕獲記録から、これらを食肉としたとすれば年間約10万トンの鯨肉の供給があったはずですが、当時の統計は日本国内でそれだけの鯨肉が消費されていたことを示しておらず、日本も欧米と同様鯨油採取後の鯨体を投棄していたと考えられます。
また、戦後のオリンピック捕鯨では、ある砲手がこのような述懐をしていることから「日本人はクジラを無駄なく利用してきた」というのが現代ではもはや通用しない虚構であることがわかります。
「あのオリンピック捕鯨はやり過ぎたと思う。獲れて母船が処理できずに捨てたこともある。肉もいいところだけとってあとは海にすてたものだ。(昭和)30年代の前半までは南氷洋のどこへ行ってもクジラが群れていたが、後半になると鯨の数がめっきり減ってしまった。キャッチャー(捕鯨船のこと)で何日間走っても鯨に行き会わない。海水ばかりだった。」
(和歌山県太地町出身の砲手の話「捕鯨II」 山下渉登 法政大学出版)
現在行われている調査捕鯨についても、内臓や骨など現在では商品価値のない/低い部分は投棄されていると考えられます。鯨油についてももはや需要はないため、現在クジラを捨てるところなく利用するのは経済的に非効率です。なお、環境保護団体グリーンピースによると、商品価値の低い鯨肉(雑肉)の投棄も行われているとの内部情報があるそうで。
クジラに限らず,食料となってくれた存在への感謝の気持ちこそが最も大切なことではないだろうか。
ミンククジラに「魚泥棒」や「シロナガスクジラ回復のため」などと濡れ衣を着せて殺して食うのは正当化されるのでしょうか。単に捕まえて食うより悪質な気がするのですが。五十嵐大介の「魔女」はハンバーガーの中から「わたしたちをたべないで。」と訴えかけます(ジャンクフード好きの私にとっては耳の痛い限りですが)。「食料となってくれた存在への感謝の気持ちこそが最も大切」というのはどう転んでも正しいのですが、それをどこまで深く理解して考えているかが常に問われない限り、「いただきます」は陳腐化しつづけるのではないでしょうか。正解を知っているだけでは不十分で、常に正確な知識を求め、答えのない問いを発しなければならんのですよ(この場合、なまじ正解があるだけにタチが悪いとも考えられるが)。
それではよい食事を。Bon appetit!
参考
シートン俗物記:いのちの奪い方
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080528
参考文献
Baleen whales: conservation issues and the status of the most endangered populations
Clapham et al., Mammal Review 29: 37-62 (1999)
Whaling: Will the Phoenix rise again?
Holt, Marine Pollution Bulletin 54: 1081–1086 (2007)
Modeling and mapping trophic overlap between marine mammals and commercial fisheries in the North Atlantic
Kaschner et al., In: Fisheries impacts on North Atlantic ecosystems: catch, effort, and national/regional data sets 9: 35-45 (2001)
Modelling and Mapping Resource Overlap between Marine Mammals and Fisheries on a Global Scale
KASCHNER, Thesis (2004)
Mapping world-wide distributions of marine mammal species using a relative environmental suitability (RES) model
Kaschner et al., MARINE ECOLOGY PROGRESS SERIES 316: 285–310 (2006)
Rapid worldwide depletion of predatory fish communities
Myers & Worm, Nature 423: 280-283 (2003)
RECOVERY PLAN FOR THE BLUE WHALE (BALAENOPTERA MUSCULUS)
Reeves et al. (1998) http://www.nmfs.noaa.gov/pr/recovery/plans.htm
Impacts of biodiversity loss on ocean ecosystem services
Worm et al., Science 314: 787-790 (2006)
Must top predators be culled for the sake of fisheries?
Yodzis, Trends in Ecology and Evolution 16: 78-84 (2001)