3500-13-12-2-1

ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

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紛糾するエア御用

・ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ:原発、クジラ問題、南京大虐殺
http://twitter.com/#!/kumikokatase/status/119645296681693184


 上のツイートについて思う事を何日かかけて思うところを書いていたところ、すでにApemanさんがきっちりと〆ていました。

公権力と研究者との関係が問われている文脈において、こうした責任を無視するかのような発言は看過することができない。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20111002/p1

 南京大虐殺否定論のような歴史修正主義は日本の歴史学者もそろって否定していると思いますが、対して日本の生物学者が捕鯨問題を正しく解説できるかどうか、不遜ながら極めて心もとないものがあります。

 ナショナリズムが絡むと議論は過熱し、歴史修正主義を含むニセ科学がまかり通るようになります。その最たる例の南京大虐殺についてでは、日本国内の歴史学者でも否定論をぶち上げる人間は皆無。歴史修正主義者の政治家など掃いて捨てるほどいるはずですが、してみると日本の歴史学者はかなり出来がいいのでしょう。政治家の妄言とは無関係に実利を求める財界や官僚たちが存在するためなのかもしれません。同じくナショナリズムの絡む捕鯨問題も、自然科学分野では決着のついている話ですが、日本の理系の無能さが際立つ話題でもあります。極狭い分野で少数の専門家が官僚に財布と急所を握られている状態では、研究者がいかに優秀でもいかんともしがたい問題ではあります(歴史学でもこういう例はある?参考:http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100115/p1)。それにしてもクジラ問題について、生態学者や動物学者といった近隣分野の人たちは何を考えているのでしょう。多分みなさん、私が勉強を始めるよりも前に知っていたはずです。本当は王様が裸ということを。

 上の二つに比べると、原発はニセ科学や歴史修正主義の問題ではなく、新しく出来た技術の舵取りの問題と思います。民主主義社会で原子力発電が問われるべきは、「原子力を使ってなんとか発電は出来るようになったけど、みんなどうする?これ使う?」というもののはずです(原子力推進がお上の決めた方針ですし、Dr-Setonさんは「原子力(原発)運用に伴う夥しい犠牲と差別構造を許容できるか否か、の問題」とまとめています)。「科学は誰のものか」(平川秀幸 著)には、遺伝子組換え生物について市民が持つ疑問の一つとして次が挙げられています。

予見されない有害な影響が生じた場合の救済策としてどんなプランが立てられているのか?

原発には事故の場合について、なにか方策があったのでしょうか。「事故は起らないから安全」→「メルトダウンしないから安全」→「メルトダウンして放射能が外に漏れたけどこの量なら安全」と、説明が一貫して変遷し続けているように見えます。メルトダウンが明らかになった以後、個々の説明は科学的には正しいのかもしれません。(こちらも現在進行中であるけど)チェルノブイリと比べても、近隣の住民の多数に重篤な健康障害が起る可能性はかなり少なそうです。しかし、私の不安は払拭されません。不安の原因は科学的な知識の不足ではありません。事前の説明の不十分さからみて、現在の被害と今後起きる被害の補償が多分なされないであろう点がまず不安です。今まで原発の掃除をしてきた人たちなどの事も気になります。東電は原発をどう説明してきたのか見ようとしても、ホームページにあった原発礼賛のポンチ絵はもう閲覧できません。この人たちも原子力発電に自信を持っている訳じゃなさそうです。

 検証の方法や結果の解釈は客観的なものでも、何を検証の対象に選ぶのかは政治的判断であると言えます。例えば捕鯨問題。日本では、反捕鯨派の一部に見られる奇矯さが特に好まれて論じられていますが、翻って大本営たる水産庁や鯨研の正当性を検証する動きはあまり活発ではありませんでした。南京大虐殺を論じるブログのコメント欄では、「中国のチベット侵略を非難しないお前は云々」という書き逃げは頻出です。二つの事を同時に追うのは大変骨の折れるものなので、たいていの人は論じる対象を一つに絞っているのですが、その行為はある意味「政治的」判断です。日本軍の戦争犯罪を問題にしようが、外国での少数民族迫害を追求しようがそれは人の自由であり、テーマの選択は純粋科学ではありません。反原発派の中にはうんざりするようなのが山ほどおり、それらへの批判はいわゆる「ニセ科学批判クラスタ」がやっていますが、ニセ科学批判に熱心な人で原子力政策の中枢を厳しく検証している人はいるのでしょうか。プルトニウム飲んでも平気とうそぶく人が原子力政策の中枢にいる事の方が、バズビー博士のあやしげなるサプリメントより問題は大きいと思うのですが。御用学問のほうがニセ科学より問題は大きいとする論もあります。

 研究とは政治であり、問題意識を持った市民が自ら研究調査し、解決策を模索していくのが成熟した民主主義社会での政治参加のあり方だ、という意味の米本昌平さんの言葉が「科学は誰のものか」の中で紹介されています。科学の手法やデータが政治的干渉を受けるのは好ましい事ではありませんが、畢竟、テーマを選んで研究する科学も政治活動なのです。政治ならば通常、対決よりも妥協や解決策の模索が好ましい事になります。平川さんは前掲書の中で、吉野川可動堰を巡る議論を実例に、単純な賛成/反対ではなく「疑問派」であることの重要さを論じています。これは技術の舵取りを論じる原発にも当てはまる事です。二項対立からの脱却が説かれている点は、他の二つのテーマでも同様です。捕鯨問題を俯瞰した「解体新書『捕鯨論争』」(石井敦 編著)の帯には「『賛成』『反対』はもうやめよう!」とあります。南京事件を論じた「The Nanjing Massacre in History and Historiography」(J A Fogel 編)には(犠牲者数のみを比較する)数字のゲームはやめよう、というような事が書いてあった気がします(今手元にないので確認できん)。無論、これらは安易などっちもどっち論とはまったく別次元のもので、疑似科学や歴史修正主義に対して妥協しろという事ではありません。原発、捕鯨、南京の三題ではこうした専門家の期待とは裏腹の低レベルなことが起こっている事になりますが、その原因は日本政府とか日本社会にあるように思えます。

日本社会における研究者集団がその社会的責任をきちんと果たしていれば少なくとも現在のようなかたちでの「紛糾」などは生じなかったはずであること、がそれである。想定可能であったはずの事故の想定を封印し、科学的な意義の希薄な調査捕鯨を放置し、否定しようがない大虐殺の存在を否定する大学人が存在することを許してきた責任は誰よりも日本の研究者集団が負うべきものである。 
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20111002/p1

 以前に「汗顔の至り」と形だけでも反省の弁を述べていた事を思い出して私は自分の良心を慰めた。御用学者wikiにある「エア御用」の項目は、私にとって理解不能か賛成できないものが大半です。菊池誠さんへの常軌を逸した執拗な攻撃も理解できません。が、それでも尚、お上への批判をタブーとする空気(エア御用)は存在すると思う次第。
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