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ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

クジラコンプレックスを生むもの

 「クジラコンプレックス」(石井•真田 東京書籍2015)を読みました。

 圧巻は第3章ドキュメント・捕鯨裁判で、裁判記録というと難解な法律用語の羅列で読むのがつらいんじゃないかという予想に反し、オーストラリアと日本双方の主張がコンパクトにまとめられており、非常に参考になりました。そのあとの章ではアカデミアの責任として、日本の国際法学の判決への反応を論評、さらに科学技術評価局の設置についても論じられています。また、「捕鯨裁判の勝者はだれか」という副題については、エピローグで論考されています。

 日本の行なう調査捕鯨がおよそ科学研究とは言えないことは知っていたので、裁判については以前このようなコメントをしました。本書を読んで、当初、オーストラリア側にも決して充分な勝算があったわけでなかったのはちょっと驚き。

 第3章の裁判の流れを読んでいて最初に思い浮かんだのは、十字砲火を受ける日本側鑑定人のワロー氏について「おー、哀れww」という感情でしたが、読み終わるころには、哀れな老ノルウェー人をサンドバッグに差し出し、自らは敵前逃亡した鯨肉販売会社の頭目への怒りしかありませんでした。とくに、ワロー氏ですら説明できないJARPAIIのザトウ・ナガス・ミンクの各捕獲頭数と調査期間の不整合については、裁判の場で鯨研の責任者からしかるべき説明があるべきでした(それが出来ないから逃亡したのだと思うが。それとも鯨への愛護精神がなければ理解できる統計的算出方法なのかwww)。

 さらに問題なのは日本の法学者でした。私は、科学性を争って勝ち目がないから法律の禅問答に逃げ込む作戦を立てたのかと思っていましたが、本書204ページの日本側の法学者のプレゼン写真を見てたまげてしまいました。こんなトンチキな子供だましが科学者も列席する法廷で通用すると思っていたのか!あまりにもお粗末。そもそも日本側に裁判に勝とうとする意志と能力があったのか。科学を争って勝ち目がないということすら自覚していなかったようです。その割には本気で勝てると思っていたらしいが。

 日本側は各所で見解の一貫性のなさを露呈し、そこを相手に徹底的につかれます。これは惨敗するべくして惨敗した裁判ということでしょう。さらに情けないのが判決後の日本の国際法学者たちの反応で、一部の例外を除いては、読むべき文献を参照せず大本営発表をなぞっただけの駄文が量産されたことが第4章で示されています(注:「駄文」というのは私の論評であり、本書の中にそのような語句は登場しない)。なんだか太平洋戦争のようです。カミカゼが吹くと信じて惨敗した挙句、やれあの戦争は日本が勝っていた、やれこうすれば勝てた、やれアジア解放のための聖戦だった、という流れとよく似ています。

 本書では日本のアカデミアの責任について、国際法学者の反応のみを見ていますが、私は以前このように書きました。
捕鯨問題がこじれた一因は日本の生物学者の無能と怠慢にあると言われても仕方ありません。忸怩たる思いがします。
やはり、捕鯨問題がここまでこじれたのはひとえに日本の生物学者の無能と怠慢によるものだと後世糾弾されるでしょう。

 やはり生物学者の責任も出てくるでしょう。餅は餅屋と言いますが、その漠然とした信頼が裏目に出たわけです。しかし調査捕鯨の科学性の検証は決して難しいものではなく、現在の科学の評価方法の一つ(すなわち論文の数と質)を機械的に当てはめるだけでも、調査捕鯨の異常さを簡単に立証できます。この問題を自分で調べ始めた頃、調査捕鯨の成果を示す論文が全く見当たらないので、調査捕鯨の結果はIWC科学委員会以外の場で公表してはならないというルールでもあるのかと思ったのを今でも覚えています。そして調査捕鯨を最大限に弁護してくれるワロー氏ですら、捕獲数の算出法も大量捕殺の必要性も説明できないわけです。鯨類学者が鯨研と水産庁に財布ときんtま(予算と雇用)を握られ沈黙を強いられているのが明白な以上、鯨類学者以外の生物学者が声を上げるべきでした。苦境にいる仲間を見殺しにしたのと同じ事です。

 そして科学技術評価局はいかにして機能するか?本書では最後に、国会直属の科学技術評価局の設置が論じられていますが、正直なところ私にはこの科学技術評価局が正常に機能する様子が想像できませんでした(確かに、「明治時代以来続いてきた政策決定プロセスを根底から改革する事を意味しているのであり、非常に難しい」と書かれていますが)。例えば、国会議員の科学リテラシーを向上させるのが重要で、その役割を科学技術評価局が担うという所ですが、そもそも学者にリテラシーがあるのか?と思ってしまうわけです。上でふれた通り、判決後の日本国内の国際法学者の反応にしろ、私がピックアップした生物学者の捕鯨論説にしろ、リテラシーの欠如というべきものではないでしょうか。これは決してクズばかり選んで集めてこの世にはクズしかいないと嘆いているのではありません。日本のアカデミアは、これほど明確に科学性を論じられるはずの調査捕鯨ですらマトモに論評できず(粕谷氏なんかは孤軍奮闘していましたが)、結局調査捕鯨は延々と続けられました。さらに国際法廷で判決が出た後も、その内容をおよそ理解しているとは思えない言説がアカデミアの中から出てくる事実が雄弁に物語っています。

 私は日本の捕鯨言説を疑似科学と歴史修正主義の複合体と考えていますが、これこそがクジラコンプレックスを生むものではないかと思います。さらにいうなら、調査捕鯨にルイセンコ事件との類似性を見いだす事も可能と思います。南京大虐殺否定論や日本軍性奴隷制度否定論が大手を振ってまかり通るような国では、科学の民主化も期待薄でしょう。

 逆にもし科学技術評価局が期待通りの役割を果たす時がくるなら、それはそういう機関を創設した結果というよりも、むしろ革命的な社会体制の変革の結果ということになるのではないかと思います。
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