3500-13-12-2-1

ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

秘密保護法が(たぶん)破壊するもの

 ブッシュ政権による米国の科学破壊を扱ったシュルマンのUndermining scienceですが、最終章はRestoring scientific integrityと題し、ブッシュ政権が行ったことを要約しています。

 一つ目は情報のコントロールで、秘密指定によるタイトな情報操作により真実が覆い隠され嘘がまかり通るようになったとしています。9.11以後、秘密指定される文書は増加し、2005年には毎分約125の文書が秘密指定されている計算だとか(2001年に比べて秘密指定は約2倍に増えたとされています)。

 二つ目は説明責任の回避で、政策決定のバランスをとるための規定をねじ曲げ、要職をイエスマンで固めたことが指摘されています。また、科学の規範を保つために、司法、州政府、マスコミが果たした役割を挙げています。特に、マスコミのリーク報道によりブッシュ政権が政策転換を余儀なくされたことが何度かあると。

 さらに説明責任に関して、産業界のロビイスト(科学技術と政策の豊富な知識を持ち、かつ業界のイデオロギーに忠実)が官僚として活動し、「健全な科学」を標榜するニセ科学が、本来の情報を歪めたことが書かれています。ブッシュ政権は、科学的事実が政策のすべてを決定するという間違った思い込みで、彼らの気に食わない科学的事実を歪めたようだとシュルマンは述べています。

 一方、日本の政治体制はどうなのでしょうか。私はこの辺りのことは詳しくないのですが、思いつく資料としてこのようなものがあります。

商業捕鯨モラトリアム以後における日本の捕鯨外交を新しい視点で読み解く
http://www2s.biglobe.ne.jp/~stars/pdf/Ishii_Okubo_JIWLP_J.pdf

 この論文では、捕鯨問題を論じる上で、そこに特徴的にあらわれる日本の政治の分析が二つ紹介されています。一つめはカレル・ヴァン・ウォルフレン氏によるもので、日本の政治体制の特徴の一つに、マスメディア管理を通じた「現実のコントロール」を挙げています。捕鯨に当てはめれば、記者クラブ制を通じて水産庁大本営発表を垂れ流すだけの報道ということになります。二つめの米本昌平氏による「構造化されたパターナリズム」モデルでも、官僚による非民主的支配を記者クラブ制度を介して互恵的に支えるマスコミのあり方が指摘されています。そして調査捕鯨を行う水産庁は、納税者に対する説明責任を果たしていないことが論文中で指摘されています。

 ウォルフレンの主張についてはここでも要約されています。官僚の説明責任の欠如と、解決策としての情報公開の重要性がいわれています。やはり記者クラブなど通じた情報の操作が日本の政治システムの特徴なのでしょう。

 シュルマンが解説するブッシュ政権の行状と、ウォルフレンらが論じる日本の政治状況を比べると、2つのことが言えるのではないかと思います(政治の素人が「情報操作」と「説明責任(アカウンタビリティ)」の2つのキーワードに注目しただけの勝手な意見であることは断っておきます)。

1)ブッシュ政権が効率的に科学を侵蝕できたのは政治制度を「日本化」したからではないのか。日本化とはすなわち、「情報のコントロール」(ブッシュは機密指定による)と「説明責任の回避」(ブッシュはマトモな科学者や野党をパージして息のかかった人間で要職を固めたことによる)です。やり方は日本と多少違えども、結果として日本と同様の現実操作と説明責任回避を成し遂げたわけです。

2)情報がマスメディアを通じてコントロールされ、官僚が説明責任も問われない、民主主義の貧弱な日本は科学を育む土壌に乏しいのではないか。シュルマンが解説する米国の事情に照らすと、もともと日本は科学が政治により侵蝕されやすい状況にあると思います。

 ブッシュは情報の秘密指定により米国の科学を歪めたわけですが、民主主義の貧弱な日本でいくらでも恣意的に秘密を指定出来る法律が成立したのだから、科学事情もブッシュ政権をさらに上回る(というか下回るというかな)事態になるでしょう。秘密保護法は、情報のコントロールと説明責任の回避にうってつけの法律です。法律の専門家らも、「特定秘密」の範囲のあいまいさや報道規制の可能性を問題視しています。

http://www.nichibenren.or.jp/activity/human/secret/problem.html
http://osakanet.web.fc2.com/himituhogohou/ikensyo2.html

 そしてまだ法案が可決される前から既に秘密保護法を口実に説明責任を回避する人もいたり。

http://ika-net.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-063d.html
http://ika-net.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-5441.html

 人為的気候変動や原子力災害という科学的知見なしでは解決できない(科学だけでも解決できない)世界的問題を抱えながら、日本の科学は健全性を保てるのでしょうか。秘密保護法は学問も破壊するものです。
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ルイセンコ化する世界



 予告通りルイセンコについて少し調べてみました。本当なら藤岡さんの本を読むべきなのですが、私は日本の本が直ちに読める環境にいません。そのかわり、書評がありました。

書評:藤岡毅著『ルィセンコ主義はなぜ出現したか:生物学の弁証法化の成果と挫折』学術出版会、2010年、ISBN-13: 978-4284102858
金山浩司
http://www.gaku-jutsu.co.jp/image/Fujioka2010-1202.pdf

 ルイセンコ学説と共産主義に直接的な関係がないことなどが、藤岡さんの核となる主張のようです。また著者である藤岡さんの学会発表要旨も発見。

藤岡毅(同志社大学嘱託講師)「極端に実用主義的なトップダウン科学政策がルイセンコ事件をもたらした~現代日本の科学政策にも通じる普遍的問題~」

1934年に設立されたソ連科学アカデミー・遺伝学研究所は世界トップ水準にあったが、1930年代末には遺伝学者は政府の信任を失い、1941年以降、遺伝学研究所はルイセンコ派の牙城となった。こうした出来事はこれまで、遺伝学=「資本主義の生物学」vs「社会主義の科学」=ルイセンコ理論、と いうようなイデオロギー対立の脈絡で語られることが多かった。だが、この事件は基礎科学を切り捨て、生物学を農業政策に従属させようとしたトップダウンの科学政策の帰結とも捉えることが出来る。農業科学アカデミーのセッションに参加した政府高官は野生キツネの家畜化についての発表を聞いて、この研究は「なんの役に立つのだ」と批判し「資金の浪費」と激怒した。さらに1938年5月の人民委員会議(閣僚会議に相当)では遺伝学研究所の研究テーマ全体が槍玉に 挙げられ、査察の過程で遺伝学の基礎研究の廃止と焦眉の実用問題への重点投資が求められた。こうした政策の帰結として、遺伝学研究の凋落とルイセンコ派の躍進がある。このようなルイセンコ事件の「教訓」は、「5カ年計画の早期達成」と「産業競争力の強化」という時代背景の違いにもかかわらず普遍性を持つだ ろう。たとえば「予算の一元化及び戦略的・重点的配分」を目玉に打ち出された「日本版NIH構想」が歴史の轍を踏まないことを願いたい。
http://www.foundbio.org/meeting7_abst.html


 ルイセンコ主義を共産主義/社会主義特有のものとみなす解釈があるようですが、以前書いた記事で私はそのようには理解していません。藤岡さんは日本でまたルイセンコ事件のようなことが起きる可能性を指摘していますし、私は既に鯨類科学で起きていると言いました。ルイセンコ主義勃興の過程については無知ながらも、ルイセンコ事件の私の捉え方はそれほどハズレていないどころか、かなりいいセン行っているのではないかと思ったり。そもそも調査捕鯨は科学者の科学的要請ではなく官僚が調査の条件を決めたことなのだから、「トップダウン科学政策」が科学研究を損ねた点、やはりルイセンコ事件との共通性があると思います。

 他にルイセンコを論じたもので、次の文献がヒットしました。

How Lysenkoism became pseudoscience: Dobzhansky to Velikovsky.
Gordin J Hist Biol 45:443- (2012)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21698424
 Gordinの論文の中でも、ルイセンコ主義をソ連特有のものと見なしたり、ソ連の科学全てをルイセンコ主義的なものと捉える間違った一般化があることが指摘されています。が、具体的に誰がそういう間違いをしているのかは挙げられていません。どうやら冷戦期に形成された通俗的解釈のようです。私がネットで調べた限りだと、勝共連合はその間違いをしているようですが、こういう理解がどの程度広まっているのかはよくわかりません。たとえばここでの議論も、ルイセンコ事件を共産主義特有のものとして捉えてはいません。

(Gordinは、ルイセンコ事件は独特なので単純に「疑似科学」と一般化できないことを、ヴェリコフスキーと対比して論じています。出現の経緯や人々の反応など、色々興味深いことを書いているのですが、私が消化しきれていないのでこれ以上はふれません。)

 そしてレイチェル・カーソンもルイセンコに言及していました。リンク先ではカーソンの肉声が聞けます。

「産業界は都合の悪い事実を隠蔽し、無害なことだけを公表させる選別装置になったのでしょうか?心ある科学者の多くは自分たちの働く組織が業界の隠れ蓑にされていることに危惧を感じています。複数の科学者が、ルイセンコ主義が米国にも台頭しつつあるのではないかと警告を発しています。ソ連の遺伝科学を捻じ曲げ、だめにしてしまっただけでなく、農業科学全般にも広く浸透していった似非科学の風潮です。でも、ここ米国では、基本的事実の歪曲は、政党の主張にそってではなく、生産と利潤をあがめ目先の利益に奉仕するためになされるのです」
http://democracynow.jp/video/20070531-4


 カーソンもまた、ルイセンコ事件に似たことが米国で起りつつあることを懸念していたわけです。そしてこの風潮が現代にも続いていることは、Merchants of doubtUndermining scienceが伝えるとおりです。

 政治が科学研究に影響するのは当然のことでもありますが(より効率的な大量殺人の研究に重きを置くのか、より公正な資源分配の研究に重きを置くのか、予算配分は政治が決めることである)、科学が政治によって歪められる事例は資本主義の世の中でも枚挙にいとまがありません。人間の作り出した化学物質が世界を汚染していることを指摘したカーソンは科学カルトの攻撃に曝され続けてきました。他にも、科学的成果を上げる見込みもない調査捕鯨が継続されたり、自然保護が軽視されたり、効果もない薬が「科学的に」効くことになったり。どうにもこういうことはどの世の中でも起きるんじゃないかと思えてきます。

 ここで言われているように、「健康や環境や労働条件に関する政策を経済政策に従属させない」という原則を樹立するのが重要に思えます。カーソンやオレスケスやシュルマンの本に書かれている事例の多くも、経済優先で環境や健康に関する科学が犠牲にされたというものです。

 こうした「ルイセンコ化」を防ぐ手だてはわかりませんが、ルイセンコ事件を直接経験した人が述べる下のような事態(すなわち証拠に基づく自由で風通しの良い議論が起こらない状態)になればルイセンコ化が起きていると考えられるでしょう(もちろん現代ともなれば形式的に議論を行ったり、中立性を担保したように偽装する知恵くらいは「ルイセンコ」の側にもあるでしょうが)。

How did East German genetics avoid Lysenkoism?
Hagemann, Trends Genet 18: 320- (2002)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12044362

I was an undergraduate student at the University of Leipzig, the Associate Professor of Zoology, C.F. Werner, said in one of his lectures on zoology (1951), ‘I have the impression that some students in this lecture hall believe that it is their decision whether they accept the Michurinist Biology of Lysenko or rather hold onto Mendelism–Morganism. Those who are not willing to accept Lysenko’s theories will have no scientific future here.’

However, an open and free critical debate on Lysenkoism, its proponents and supporting scientists as well as its political supporters (in the background) never took place in public in the GDR (neither on radio and television, nor in newspapers or general journals). This was in line with the official policy of the government and the ruling party and frequently was expressed with the slogan: ‘We do not want any discussion of previous mistakes!’ (in German: Keine Fehler-Diskussion!).

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