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ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

健全な科学と科学の健全さ

社会思想史についての一般的教訓。ロンブローゾの生得的犯罪者説は、進化という考えが、その中心である生物学からはるかにへだたった諸分野においても、巨大な影響力をふるったことを物語っている。抽象的な事象をあつかう科学者たちも、その時代的風潮からまったく無縁でいられるわけではない。重要な諸概念というものは驚くほど遠く離れた分野にまで目に見えない影響をおよぼすのである。核兵器時代の人間はこのことをよく知っておく必要がある。だが、悲しいことに多くの科学者たちはこのメッセージをまだ受け入れていないのである。

スティーブン・グールド「ダーウィン以来」より


 捕鯨問題でエア御用を明白に規定出来る一方で、原発御用学者wikiのエア御用の定義が明確でないのはなぜか、と考えてみた。エア御用は御用のおまけなので本気で相手にする価値はないし、本家原発御用学者wikiのほうで定義する必要もないと思うが、定義できない(少なくとも定義しづらい)ことには意味があるのかもしれないと思ったり。

 原子力は現在、軍事利用までされているほどの巨大な産業なので、核技術関連の議論を健全な科学に見せかけることができるのが、原発エア御用定義の曖昧さの主な原因だろう。捕鯨問題で科学に背くエア御用をいとも簡単にあぶりだせたのは、捕鯨サークルに往事の力がなく、捕鯨推進大本営にとっての健全な科学を展開できる場が限られているからである。一方、捕鯨に比べ圧倒的な規模を誇る原子力村なら、世界中で健全な科学を展開できる。それに核技術はまだ生成途上であり、南京大虐殺や捕鯨ほどに専門家の意見が一致しているわけではない。科学の形式に従っている限り、お上の都合に関係ない純粋に科学的な議論に見えるのだ。

 自然科学はとくに政治的中立と思われているが、実のところ政治や社会の影響と無関係ではいられない。進化論が社会に与えた影響、そして社会的背景が科学者の思考に与えた影響を語らせたら、スティーヴン・グールドの右に出るものはいないだろう(というか私がグールドしか知らないだけだが)。著書「ダーウィン以来」で人種差別の歴史を論じる中、グールドは「これらの人びとは、おのおのの申し立ては、そこで提出された「データ」から生じていると決めてかかり、それらを真に触発した社会的条件には気づかないのである」と述べている。これは人種差別だけに当てはまることだろうか?捕鯨産業がまだ盛んであった1950年代、乱獲は深刻であったにも関わらず、捕鯨国の科学者は捕獲規制の提言に消極的であった。もし1950年代にクジラの保護を訴えたなら、「保護が必要だというなら、クジラが絶滅の危機にあるという科学的証拠を出せ」という反論が返って来たであろう事は想像に難くない。この反論は科学的ではあっても、捕鯨産業の意思を汲んだ面がある。同様のことは他にもあり、水俣病の有機水銀原因説に対して厳密な科学的証明を求め、小田原評定を続けたあげく被害を拡大したのにも、責任を認めたくないチッソや政府の意思が働いていた。議論の形式は科学的であっても、問題の及ぶ範囲が科学だけにとどまらない場合、科学的な意見も政治性を帯びることからは逃れられない。

 つまり、科学の作法に則った議論や意見ならそれにまったく問題がないのかといえば、否だ。人間活動全体から見れば科学の守備範囲は結構狭いので、社会全体に関わる事柄を科学だけで決めるのは愚の骨頂だろう。社会にある問題の多くは科学だけでは決められないことが多い。原子力でお湯がわくのは本当だが、それを実際に使うかどうかという判断は科学というより、より広範な社会的議論を要する政治的なものだ。捕鯨を例にすると、クジラの数を数えて捕獲枠を決めるのは科学でも、捕鯨するしないを最終的に決めるのは政治であり、科学の仕事ではないということだ。

 意思決定の場で科学がより重視されるようになったことと関係して、科学の装いを持った何か別のものが意思決定に紛れ込むことがある。科学の作法に従った形で、ある種の政治的偏見がまかり通ってきた歴史が科学史の一面にあることをグールドは教えてくれる。例えば進化論が人種差別政策の科学的根拠とされたように。一番わかりやすいのはニセ科学で、ある種の道徳的に称揚される行為に科学的根拠があるかのように説くのも、科学への信頼の(不適切な形での)現れなのだろう。だがニセ科学は民間のものだけではない。グールドがいくつも例を挙げて繰り返し述べているように、進化論はときに人種差別政策を科学の装いで正当化するのに使われてきた。ニセ科学は時に全社会を巻き込むものだし、人間はこうした偏見からいつまでたっても逃れられないだろう。科学による政治の非政治化が日本の政治の特徴であると、カレル・ヴァン・ウォルフレンが述べているそうだが、これは日本だけに限った事ではない。グールドが挙げたように、かつて進化論は西欧におけるある種の社会制度の科学的正当化に使われたのだから。科学による政治の非政治化(「これは政治的意図でやってるんじゃなくて、科学的に正しいことだから仕方ないんです」というまやかしの説明をすること)は今でも行われているため、科学の装いの下に何が隠されているのかを注意深く見極めなければならない。

 それでは意思決定の道具たる科学が現在抱えている問題は何なのか?歴史は常に後付けなので、現代がどういう時代なのかを今の時点で理解するのはまず無理と思うが、それでも、研究予算とポスト獲得の問題は大半の科学者にとって切実な問題だ。多くの科学者の生殺与奪の権限は予算と雇用を提供している側が握っている。そのような構造の中で展開される健全な科学こそ懐疑の対象とされるべきだ。民主主義が適切に機能していれば、科学も信頼に足るものだろう。1%が99%を支配する今の世の中が公正だと思うなら、健全な科学とやらを無邪気に信じていればよい。

米国産業界の一部では脅威となる研究を「ジャンクサイエンス(ニセ科学)」だと非難し、反対に業界が委託して行った研究を「健全な科学」として正当化する事が常套手段になっている。
悪用される科学 デビッド・マイケルズ
日経サイエンス 2005年10月号 90-


日本の研究体制:このような研究条件はさらに深く研究体制とかかわっており、企業・行政・研究の間の矛盾に根ざしていることを認識する必要がある。
鯨類資源管理理論に関するコメント 和田一雄
哺乳類科学 第28・29合併号 1974年6月 47-

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「現実論」の嫌らしさ

 沖縄の基地撤去について現実論を語る輩がいるが、彼らが語る現実論は結局のところ現状容認以外のものではない。「現実的」脱原発を主張する人間をみても同様で、現在の差別に目をつぶろうということしか言っていないのだ。

 この動画で小出さんと班目さんが対比されているが、彼らが述べている事はコインの裏表だ。
http://youtu.be/AksrgkxQ7pA

 小出さんについて色々批判はあるのかもしれないが、彼が指摘する原発の差別性は厳然たる事実だ。これは沖縄を大日本帝国本土防衛の捨て石として利用し、現在に至るまで米軍基地を押し付けている構造と瓜二つのものであり、突きつけられている問いはこの差別構造を容認するかどうかということだろう。

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