3500-13-12-2-1

ツーリングの記録等に使おうと思っていたが。。。タイトルは最初の記事の3500km, 13日, 12ヶ国, 自動二輪, 空冷単気筒の意。

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完膚無きまでに

 「ゲーム脳」や「水からの伝言」といいたニセ科学への批判は既に適切なものが多くあり、私が出る幕じゃないのですが、そろそろ捕鯨もそんな感じになってきました。もう叩く場所が無くなってきて、あとは延々と「南京大虐殺」や「ナチスのガス室」みたいなループになるのでしょう(IWCの会議は既にそういう状態かもしれんが)。

サイエンス誌2月13日号に「クジラ食害論」を否定する論文が出た
http://blogs.yahoo.co.jp/marburg_aromatics_chem/60296955.html

 いまさらという気もしますが、当然のことです。

IWC2009は荒れること請け合い?
http://blog.goo.ne.jp/flagburner/e/771f0f68a1a062e64aa99d7f38c8d542

 そろそろIWCの会合が近づいているので、いいタイミングで論文が出せたと思います。水面下ではきっと色々動いているのでしょう。水産庁の言い分としては「鯨食害論」は反捕鯨派の曲解である、ということらしいので、会議でつつかれてもしらばっくれる事は出来るでしょうが、それを素朴に信じていた連中はどう思うでしょうか。反捕鯨派が非科学的だというのであれば、「鯨食害論」を流布するようなイラストなどにはきっちり釘を刺して欲しいものです。

 ところで、ミンクとシロナガスの競合ってきちんと解明されたんでしょうか。。
http://www.e-kujira.or.jp/topic/lec/05/1114/

 自然科学面以外で面白いのが「捕鯨文化論」です。新聞や議事録の検索から、捕鯨を文化と結びつける言説が日本にあらわれたのは1970年代の終わり頃であり、広告会社によって作り出された文化ということが明らかになっています。ちなみにパオロ・マッツァリーノの「反社会学の不埒な研究報告」では武士道関連本の出版には波がある(=「武士道は忘れた頃にやってくる」)ことが示されています。やってみると面白いであろう調査は、「捕鯨文化」の研究論文や書籍の年次推移と、それらがどのような文脈で捕鯨文化を論じているか、でしょうか。多分、新聞記事と同じで1980年代以降、「日本人は昔からクジラを食べてきた」論が盛んになるんじゃないかと思います。どんなデータベースがあるのかは知りませんが。

 長門宣言には「クジラ1頭捕れれば七浦うるおう」とあり、日本俗論大百科にも同じような事が書かれています。典型的な捉え方はこういうものでしょう。

 果たして、日本に百ほどあるという鯨の墓にはクジラへの感謝という意味しかないのか。下記リンクでは、「鯨を捕ると七浦が枯れる」という言葉が紹介され、祟りを恐れて作られた鯨の墓がある可能性が論じられています。クジラを沖の神と見なして捕殺を禁忌とした漁村がどのくらいあったのか。また、「祟り」や「七浦が枯れる」という言葉の意味するところはなんなのか(ある種の信仰に基づく迷信なのか、あるいは捕鯨による資源枯渇の戒めなのか)も興味深いところです。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/yokosanac/kikakukenmin/kenmin/c-jigyo/21hello.html

やはりこの本は読みたい。
http://homepage3.nifty.com/stg/shohyo.html

 捕鯨問題に詳しいkknekoさん作成の図を参考にすると、「捕鯨文化」について批判的な人文系の研究者はほとんどいないようです。「日本人は昔からクジラを食べてきた」という神話を刷り込まれてしまうと、それを疑うのは難しくなります。そしてだまされる外人も出てくる。。
http://www.e-kujira.or.jp/topic/coo/06/0903/index.html

 御用学者を動員して政治的に構築された文化やそれについての学問というのは、気がついてしまえば実に薄っぺらなものです。

商業捕鯨モラトリアム実施以後の、わが国の捕鯨をめぐる言説は、かなり不自由なものに変質したといえる。
捕鯨の近代 塩崎俊彦 神戸山手大学紀要 7: 13-21 (2005)


魅惑の鯨文化
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-56.html

伝統・文化のタネあかし:これが教育基本法の改正か
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1284.html

 パオロ・マッツァリーノはこのように述べています。

 しかし今回私は、資料を見つけるのにけっこう苦労しました。それは私が日本史の専門家でないせいもあります。でもそれにしても、です。職人や商人の生き方や長屋の暮らしぶりなど、真面目な町人の生活についてかかれた資料は山ほどあるのです。反対に、最下層の貧民や犯罪者に関しての本にも事欠きません。問題は、その中間です。違法とまではいかないけれど、不真面目でいいかげんなフリーターのような町人が少なくなかったにもかかわらず、そのことに触れている資料はごくわずかしかないのです。

 その理由は明らかです。江戸時代に関する資料や本を執筆した人たちが、日本人勤勉神話に洗脳された現代人だからです。しかもそのほとんどは中高年なのです。彼らはこどもの頃から日本人勤勉神話を教えこまれ、それを美徳として育ってきました。ですから、自分の常識からはみだしたものは、見たくもないし、調べもしないし、書きもしません。職人や商人が一人前になるまでどれだけ苦労したか、なんて話は現代の労働美意識と合致するので喜んで書きますが、その日暮らしを謳歌していたという事実は、労働美意識に反するので無視します。歴史的事実はたったひとつですが、歴史の解釈は、のちの世の道徳・倫理観によって異なるという見本です。http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html


 「日本人は昔からクジラを食べてきた」神話、果たしてどこまで正しいものか。
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テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済

何か言うのが一番難しいとき

Mersey Paradise:低い家の女の子
http://pantarhei.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d66f.html

 しかし、あの女の子が、あんなふうに傷つけられ、泣かされても、「しょうがない」「無理も無い」「それが世の中」などと言う意味のわからない言葉で辻褄を合わせようとする心性と言うのは、なんともみじめな精神のありようではないか。

 あの「低い家の女の子」の人生にとって、私は一体どんな存在だったのだろう。
 それを想像しただけで、私は暗澹たる気持ちになる。

 彼女はその後、どんな人生を送ったのだろう。

 神様、お願いです。
 どうか彼女が、幸せになっていますように。

 わかってる。そんなモノは、私の身勝手なホザキに過ぎない。
 他人の足を笑って踏んでおきながら、幸せもへったくれも無いものだ。

 私に出来るコトは、「卑劣」と言う言葉の意味を噛みしめるコトくらいだ。


 何かは言いたいが、何を言えばいいのかわからない。ここは己の内省と修養の場だけとするべきではあるが、思い出さずにはいられない世の中のニュースというものがある。

おこじょの日記:血も涙もない
http://d.hatena.ne.jp/o-kojo2/20090214

▼CLick for Anti War 最新メモ:そんなことをする暇があれば働けばいいのに、と思ってしまう。
http://d.hatena.ne.jp/claw/20090217#p2

 次の職場の就労許可でトラブルがあり、4月に自分がどこにいるのか見当もつかない状態になっています。これは相手側のミスで、全面的に向こうのサポートを受けられる見込みなので私は楽観的ですが。外国で働くのは結構大変だと思いますよ。私は自分の専門だけやっていればそれでいい立場なのでかなり楽させてもらってますが(税金の手続きも他人任せだし。結局ドイツ語も身に付かなかったし)。言葉も違う異国で危ない橋を渡って働こうなんて、よっぽど理由があったんでしょうなぁ。「想像力なしでは世界はかなしい」と歌うミレーヌ・ファルメールを思い出します。

Dessine-moi un mouton
Le ciel est vide sans imagination

C'est ça Dessine-moi un mouton
Redevenir l'enfant que nous étions

Dessine-moi un mouton
Le monde est triste sans imagination

C'est ça Dessine-moi un mouton
Apprivoiser l'absurdité du Monde


訳詞
http://homepage1.nifty.com/lf_nishino/donchan/p08_mouton.html

http://www.youtube.com/watch?v=XDWQ29KGPrM
【“何か言うのが一番難しいとき”の続きを読む】

調査捕鯨は国益である

http://greenpeace.or.jp/whalelove/newsletter/sample.htm

「調査捕鯨を廃止し、沿岸零細捕鯨を保護することが国益のバランスにかなう」


 実際には、一部水産官僚の利益になっているのだから、調査捕鯨だって充分立派な「国益」なんですよ。外務官僚とかはそのうまみにありつけないから文句を言っているだけで。日本人全員の利害が一致するなんて事があり得ない以上、「国益」で日本人がもれなく利益を享受するなんて事もあり得ないのです。その国益たる調査捕鯨のさして重要でもないデータ解析に研究者のリソースが投入されるのは、科学の利益に反するものです。そもそも国益なんて言葉がまやかしなのです。

反捕鯨の本質は何かという議論はよく見かけますが。
宗教?
ガイア教の天使クジラ
http://tkido.blog43.fc2.com/blog-entry-324.html

要点は反捕鯨問題は本質的に宗教問題であるということだ。


病気?
反捕鯨の病理学
http://luna.pos.to/whale/jpn_nemo3.html

さらに二流知識人の特徴を挙げよう。政治的センスがなく、国際政治の仕組みに無知なことだ。


自己紹介乙。

文化対立?
捕鯨問題における文化的対立の構造 岩崎まさみ 北海学園大学人文論集

それらの要因はまさに動物愛護論に起因したものであり、対立の核にはクジラの捕殺を認めるか認めないかという問いがある。

捕鯨支持国と反捕鯨国の対立構造の深層には、クジラの捕殺をめぐる相反する価値観があり、その対立をめぐる複雑な駆け引きが展開されていると言える。


 この論文の要旨は捕鯨問題は文化対立だということですが、根本的に間違った議論です。そもそも捕鯨についての文化対立という話は、捕鯨を存続させるために広告会社によって作り出されたものであり、「日本は捕鯨禁止という国際規範を拒絶するために文化的相違の議論を構築したのであって、その逆ではない。(石井&大久保 2007)」からです。保護するべき野生動物でも科学研究の必要に応じて捕殺が認められることがあるのは以前にもご紹介しました。反捕鯨運動に動物愛護団体が関わっているのは事実ですが、科学調査を名目とした捕鯨については科学の観点から名だたる科学者たちが批判しており、これには動物愛護論や価値観の違いなどが入り込む余地はありません。(余談ですが、「実験動物供養塔」や「実験動物慰霊祭」なんてものは、あくまでも個人的な経験ですが、日本以外では見た事がないのですが。)

 反捕鯨の本質は何かはしばしば議論されますが(大抵は宗教だとか病気だとかいう事になるらしい)、捕鯨推進の本質が何なのかはあまり問われません(政治外交分野での秀逸な分析はありますが)。捕鯨サークルの意見をもっとも集約した文献はおそらくこれでしょう。

Multiple analysis of the whaling issue: Understanding the dispute by a matrix
Morishita, Marine Policy 30: 802–808 (2006)

 この論文の中で論じられていることをいくつかピックアップしてみると、ここでもたびたび述べられているのと同様、インドにおけるウシの取り扱いを例に、クジラをめぐる価値観の相違が捕鯨問題の根本にあるという主張がなされています。大事な事なのでもう一度引用しましょう。「日本は捕鯨禁止という国際規範を拒絶するために文化的相違の議論を構築したのであって、その逆ではない。(「日本の捕鯨外交を問い直す:商業捕鯨モラトリアム以降の外交目的と実態の乖離」より)」

 その他の部分でも森下論文には、科学的根拠のない鯨食害論だとか、捕鯨禁止はベトナム戦争への非難をかわす隠れ蓑だとかの俗論が満ちあふれています。クジラもイルカも害獣ではないというのは既に何度も述べました。捕鯨禁止とベトナム戦争を結びつける俗論は、

米国捕鯨政策の転換 真田康弘 国際協力論集14: 139-159

で完全に否定されています。そもそもこの陰謀説は、「国際的捕鯨規制の歴史」といったテーマで商業捕鯨禁止へ至る経緯を論じた場合、本文の論理展開の中に組み込めないくらいの変化球なのです。「米国捕鯨政策の転換」のなかでも、巻末の注釈でようやく言及されています。

捕鯨が自滅する過程、モラトリアムへ至る道をコミカルに描いたkknekoさんの傑作でも、

確かに、流れとして不自然なところは何もありませんね・・
じゃあ陰謀説は一体どこから・・?


と表現されています。もともと米国政府の担当者はモラトリアムに消極的だったのに、捕鯨を盛んに行なっていたソ連や日本が国際監視員制度を反古にしたため、管理された捕鯨を目指した米政府担当者の面目も立場も丸つぶれになったのです。動物愛護団体の方がよっぽど現実をまともに理解しているのではないでしょうか。

商業捕鯨再開問題に関するJWCS の見解 2002 年5 月22 日 より引用
http://www.jwcs.org/

産業自体が内在的に含む限界(対象となるクジラが実は脆弱な資源であったこと)を産業政策や企業経営に反映しないまま、水産資本の蓄積に貢献し戦後食糧危機を救った花形国策企業をぶざまに自滅させたことに対する面目を保つためという見方もある。捕鯨産業がまるで外部からの圧力で駄目になったかのごとく、商業捕鯨再開に反対する外国政府や市民団体に対して過剰な敵対姿勢をとる彼らの姿は、まさにその現われと映る。


上を読んで思い出したのが水産資源学者勝川先生のコメントです。

日本の漁業者は、甘やかされているが、大切にされていない
http://kaiseki.ori.u-tokyo.ac.jp/~katukawa/blog/2007/10/post_224.html

 水産資源管理の失敗をクジラになすりつけるための「鯨食害論」なんかも甘やかしの一例でしょうな(コメント欄で指摘されている通り、「甘やかし」というよりも都合良く利用されていると言った方がより正確かもしれません。漁師もクジラも)。

捕鯨会社のブログ
http://gaibouhogei.blog107.fc2.com/blog-entry-33.html

また世界中で活躍している動物愛護団体の皆さんに司馬遼太郎さんの書いた言葉を捧げたい。「虚構はつねに激情をうむ。」そうです、この騒動はあなた方が捨てきれない虚構によってもたらされたものなのです。


 実際には自滅した捕鯨産業を虚構の歴史で飾り立てる様は、現実では負けているのに何故か精神的勝利者になる「阿Q正伝」のようですな。過去の新聞記事から日本の近代捕鯨像をさぐった塩崎俊彦氏の「捕鯨の近代」はこのように締めくくられています。

われわれが鯨肉食についてイメージしているのは、いまはここにないが、かつてはそこにあったはずのものに対するノスタルジアである。しかし、いまここにないものが、かつて必ずそこに存在していたと証拠立てるためには、忘却の底に沈みかけている記憶を召還しなければならない。だが、ここに試みられた素描に従えば、かつてそこにあったはずのものは、<伝統>という名の忘却装置によって仮構された霧の中にしか姿を見せることはない。


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でたらめ信じて人殺し 歴史は今日も繰り返す


 ?ロックンロール・ファイヤー/犬神サーカス団

 南極海の衝突は今年(今季)はもうないようですが、死人が出たりしたら本当に取り返しのつかないことになるで。それにしても雁屋哲氏は滑稽だね。
煮えしんぼ
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20090209
手塚治虫氏と雁屋哲氏/南極海捕鯨戦争関連報道続報
http://kkneko.sblo.jp/article/26550741.html

 雁屋氏は作品から察するに、ものすごいファザコンと思われる。きっとスターウォーズとか大好きなはずだ。海原ー山岡の父子対決が基軸の「美味しんぼ」に加え、「男組」では神龍が「お前たちの父親はブタだ」と父親への憎悪をむき出しにする。雁屋氏は反天皇主義者らしいが、その心情は国父たる天皇に対する反感なのではなかろうかと思ったり。もし天皇を国父と認識しているなら、それはまさに天皇主義右翼の感性である。

テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済

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