既にいくつか感想は上がっているけど。
反反捕鯨ウヨサンケイ&ウヨガキに負けるな、鳩山首相/「THE COVE」では伝えきれない太地捕鯨&イルカ漁のダメっぷり2
http://kkneko.sblo.jp/article/33346665.htmlSouth Park Episode Player – Whale Whores
http://katukawa.com/2009/11/south-park-episode-player-whale-whores.html 劇中で日本人がイルカやクジラを憎悪する動機がぶっ飛んでいるが、それほど馴染みの食材というわけでもないクジラやイルカを日本人がやたら殺したがる理由については誰もが不思議がっているようだ。
ところで、純然たる日本人であるわっしの叔父は鯨肉を食べたことがないそうです。
わっしは、むかし、それを聞いてびっくらこいてしまいました。
「なんで?」と思わず訊いてしまった。
だって、わっしは日本のヒトはイメージとして少なくとも一週間に二回くらいは鯨をくっているのだと思っておった。
http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20071226/p1
=-=-=-=-=-=
最近ニュースでよく目にする仕分け作業というのが何のことだかわからないが、とにかく話題になっているみたい。
緊急メッセージ、未来の科学ために
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091115/p2 鯨研に関しても既にドイツ語好きの化学者さんが言及していた。
「財団法人」日本鯨類研究所は外部評価を実施するだろうか
http://blogs.yahoo.co.jp/marburg_aromatics_chem/62496348.html 毎度このブログがおもしろい。
皆が賢くならないと止まらない(嘲)
http://nishidasaburou.iza.ne.jp/blog/entry/1325421/「これは国民もおんなじだぜ。今、どーいうわけか現政権がやってる
『仕分け』に批判的な人もいるみたいだけど、そーいう連中ってさあ、
よーするに『ブラックボックス』が好きなんだよ(嘲)」
「ケムにまかれて、専門用語で誤魔化されて、結局損するのが好き?
……それって一体、どんな変態?(笑)」
官僚が研究方針(=出来るだけたくさんクジラを殺す)と結論(=クジラは魚をたくさん食べている!!)を用意したうえ予算までとってくるので、科学者のやることといえばクジラの解体と小中学生相手の子供だまし出張授業だけ。商業捕鯨について御用学者は「科学情報に基づく持続的利用」と繰り返すだけで(もっとよく利用される魚種は乱獲されてるらしいがな)、「具体的な需要がなく、採算見通しも甘い」などと本質的な批判はされない。
ココはいいところさ、適当にやってりゃ食えなくなるこたぁねえもんな
〜映画「王立宇宙軍」より
「『捕鯨が科学的に可能』であることは示された。捕鯨再開の政治交渉や今後商業捕鯨が成り立つかどうかは科学の担当する分野ではないが、状況を常識的に鑑みれば可能性は低いだろう」といった見解が科学者側から出ないことが異常事態なのだろう。
テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済
「クジラフエル→サカナヘル→オレコマル」式脳内海洋生態系理論や「捕鯨をやめるのはクジラを過剰に保護することになる」という官僚の言葉遊びが疑似科学の見本なら、「日本は捕鯨の優等生」というのは歴史修正主義の見本でしょう。具体的な事実についてはさんざん論じて来たのでここでは述べません。
参考
科学について
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-31.htmlhttp://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-85.html歴史について
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-49.htmlやる夫で学ぶ近代捕鯨史−番外編−
http://chikyu-to-umi.com/kkneko/aa1.htmさて、こちらの記事とコメント欄ですが。
「捕って問題ないなら捕りゃいいし、疑念があるなら止めりゃいい」と思いつつなぜ農林水産省があれほど懸命になるのかその裏はなんだ? という程度なんです
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080120/p1
とかなり中立的だったApemanさんが、推進派と対話するにつれ、
現実問題として、事態を動かす必要を感じているのは捕鯨容認(or推進)派であるわけです。つまり相手を説得するという動機をより強く持つべきは捕鯨容認(or推進)派であるわけです。私がこのエントリで問題にしているのは、このような前提の下では、捕鯨容認(or推進)派こそが相手の主張を誠実に理解する努力をしなければ、結局通る主張も通らなくなるよ、ってことなのです。例えば
>狂信的な反捕鯨団体
といった言い方を簡単に使う人々がいるわけですが、相手を「狂信的」と呼んでしまえばもはや議論は成立しません。相手のパースペクティヴからは捕鯨容認(or推進)派こそが「狂信的鯨殺戮者」と見えているかもしれない、という想像力も欠けていないでしょうか? 双方が相手を「狂信者」呼ばわりして議論が成立しなくなれば、結局捕鯨容認(or推進)派が損をするわけでしょう? 捕鯨禁止派が鯨の生息状況に関わる事実を誤認していた場合のリスクと捕鯨容認(or推進)派が事実を誤認していた場合のリスクとを比較した時、後者の方がより「取り返しのつかない」事態になることは確かなんです。この「取り返しのつかなさ」の圧倒的な非対称性を勘定に入れずに安易に「狂信的」という言葉は用いるべきじゃないでしょう。その意味で、これは最初から五分五分の議論にはなりようがないんですよ。禁止派は懸念があることを示せばよいのに対し、容認(or推進)派は懸念の余地がないことを示さないといけない。もともと容認(or推進)派は高いハードルをクリアしないといけない立場にあるんです。満州事変をひきあいに出したのは、「自分の主張が相手にどう理解されているかを正確に理解する」ことが大切だ、という教訓としてです。
三浦淳氏の主張を読むとかえって反捕鯨派に肩入れしたくなりますなぁ…。
と言うようになるあたり。自分と意見の違う人間を論じるのに「病理」という言葉を使うのは、上品な人たちには、大学人としての品格と教養に欠けると思われるでしょう(私は上品さとは無縁のパンクなので「クソみてぇな御用学者」と思うだけですが)。歴史修正主義についての個人的に気に入っている記事はこちら。
「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見
彼らは、自らの主張が国際社会でどのように受け取られるかがまるで把握できておらず、内向きの論理のみで行動していた。それはまさに戦前の日本そのままだ。
- - -
歴史修正主義の最大の問題点はこの稚拙で独善的な内向きの論理、内輪でしか通じない私的な論理を、内輪の論理だと気づくことができず、その独善的なときに差別的な認識を露わにしてしまうことだ。
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080103/p1
上の記事は捕鯨とは関係ありませんが、捕鯨問題についても日本の行動はそのままあてはまります。実際、捕鯨外交史の専門家も次のように分析しています。
「地球の友」や「グリーンピース」等の環境NGO は、単純明快な論理、善悪二元論的敵対関係の明確化、闘争的パフォーマンス、シンボルやイメージの重視と多用という劇場型政治により「捕鯨= 悪」というイメージをとりわけ英米において定着させることに成功、自らの立場を書籍やパンフレットを通じてマニュアル化し、科学的正当化と人道規範への接合を図った。対して捕鯨を推進・擁護する側は、これらに対抗する言説を構築・拡散する能力及び意思が不十分であり、これが捕鯨推進側の敗北の一因であると捉えられよう。さらに、国内的にはナショナリズム規範と接合し、これに即した言説の編成によって、捕鯨支持の世論を国内的に形成することに成功したものの、接合したものがナショナリズムという対外的には訴求力に乏しいものであり、またこうした言説がともすれば反捕鯨側に極めて対決的なものであったことが、ますます日本国内と欧米各国との間における意見の分極化を招いたと考えられる。
1970年代における日本の対外捕鯨政策 その敗北と要因
真田康弘
捕鯨推進派をウォッチしていて持った印象は、彼らは何が批判されているのかを理解しないということです。いやしくも学問の作法を知る人間ならば科学の話題については少なくともネイチャーやサイエンスでどのような議論がされているかを一目みてみるべきであり、そこには「クジラが可哀相」とか「クジラの知能」などという議論は存在しません。もともと捕鯨にまつわる俗論を信じていた私が捕鯨反対派に転向したのは、捕鯨に対する批判を読むにつれ、明晰なる理性の要求として調査捕鯨を弁護できないと考えたからです。
,j;;;;;j,. ---一、 ` ―--‐、_ l;;;;;;
{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;; 事実を知れば捕鯨問題は終わる
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙ そんなふうに考えていた時期が
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;> 俺にもありました
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `!
「石井・大久保論文が和訳完成の暁は捕鯨推進派なぞあっという間に叩いてみせるわ」
しかし、実際のところそうはなりませんでした。彼らは何が批判されているのかを理解しないのです。理解できないのか、理解したがらないのか、相変わらず「反捕鯨は感情的」「捕鯨問題は文化対立」「捕鯨問題は宗教問題」「捕鯨問題は人種差別(という割には反捕鯨国のオーストラリア人をひとまとめにして歴史などを罵倒するのが大好き)」という俗論が幅を利かせています。この構図はまさに疑似科学や歴史修正主義の問題と同じものです。
テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済
クジラクリッピング経由で
http://kkneko.sblo.jp/article/32472886.html「環境経済・政策学会2009年大会」 企画:捕鯨論争の「解剖学」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/seeps/meeting/2009/abst/prog0908_2009.html#43「文化」は創り出される クジラとのかかわりの歴史から捕鯨論争を再考する 渡邉洋之
など参考にしつつ。
過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる 〜ヴァイツゼッカー
日本の捕鯨史は縄文時代にまでさかのぼれるのは事実としても、日本に住んでいた人間がことごとく鯨肉を常食としていたかのように宣伝するのは、新興宗教の国家神道にも似ている。天皇家が古い家系であるというのは事実でも、それが日本人全員にとって神聖不可侵な存在と教育されるようになったのは近代の話であり、昔の日本人の中には天皇という存在すらしらない人間だっていただろう。「もののけ姫」で製鉄所の女たちがジコ坊の持ってきた手紙を見せられてぽかーんとしているシーンが忘れられん。捕鯨にしろ天皇制にしろ、全くの作り話とともに、「事実の間違いではなく、事実の捉え方の間違い」も多くある。
ヤスクニやテンノーってのは、むしろ国家権力による共同性の簒奪だと考えますにゃ。
実際に、明治政府は村落共同体の神社や鎮守の森を破壊しつつ、国家神道をでっちあげていったわけだにゃ。つまりは村落共同体の破壊と国家共同体のでっちあげというペテンだよにゃ。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915
近代化以前の日本の捕鯨がどうだったのかは実はよく分かっていない様だ。星川氏の本でも、ローテクが常に環境に優しいわけではなく乱獲で自滅したようだとは書かれているが、はっきりとした証拠はないみたい。ただ仮に持続的捕鯨を行っていたとしても、近代化、帝国主義化の過程でそういった「伝統的捕鯨共同体」は解体され、近代捕鯨産業に取って代わられたと考えるのが普通だろう(社会のあり方は常に変遷するという大まかな歴史の流れに即して)。以前にも述べた通り、鯨油は当時の帝国主義諸国にとって重要な工業製品であり、だからこそ各国はクジラが姿を消すまで乱獲し、増産を追求したのだ。その帝国主義列強の一角に食い込んだ大日本帝国がクジラを乱獲していないというなら、それを可能にした特別な理由(代替物の存在とか、根本的に異なるテクノロジーとか)が存在しばければならないが、御用学者は当然無視している。「日本はクジラを乱獲していない」というのは「環境大国スイスにはガソリンで走る自動車はない」と言うのと同じレベルの話である。捕鯨サークルを揶揄して「大本営発表」などと言ってきたが、現代日本で信じられている捕鯨神話は大日本帝国の背骨である天皇制とよく似ている。批判がタブーである、というあたりとか。
果敢にして斬新な皇室批判はあるけど。
商業捕鯨モラトリアム実施以後の、わが国の捕鯨をめぐる言説は、かなり不自由なものに変質したといえる。
捕鯨の近代 塩崎俊彦 神戸山手大学紀要 7: 13-21 (2005)
冒頭のヴァイツゼッカーの言葉はずっと陳腐な表現と思っていたが、ありもしない過去の栄光(日本=捕鯨エリート)をでっち上げ、具体的プランもないまま捕鯨再開を獅子吼し自滅の道をひた走る捕鯨推進派を見るにつけ、その指し示す意味を噛み締めている。
テーマ:捕鯨・反捕鯨問題 - ジャンル:政治・経済